2009年2月20日 特別増刊(第26号)
「世界一周」の旅・ギャラリー

写真提供:富樫史生
序曲 16年前の手紙
2001年1月1日、新しい年の初めての朝を迎えて、一人の青年が郵便受けを開いてみたところ、分厚い年賀状の束と一緒に、ちょっと派手なビニールの封筒があるのを見つけた。封筒には、小さな文字で「20世紀の私から21世紀のあなたへ」と書いてあった。なんとそれは、高校生の時の自分が16年前に未来に向かって書いた手紙だったのだ! 1985年つくば科学万博会場で行われた、「ポストカプセル郵便」のサービスを利用したときのことが心によみがえってきた…。

●21世紀は中国の時代です。中国語を勉強しましょう!
●できれば海外に出て働きなさい。いろんな文化や価値観に接することは重要です!
●ぜい肉はついていませんか?男もシェイプアップが必要です。
●今の自分に満足していますか?まだ32歳なのです。人生80年、今が転換期なのかもしれません。自分を見つめなおすのもよいでしょう。

●2002年、世界一周に挑む!!!
――この心を揺さぶる言葉の傍らには、親指を突き出してバイクのそばに立つ自画像が描かれ、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。

こうして、21世紀最初の日に高校生の自分からの手紙を受け取ったことが、富樫史生さんの運命を変え、のちに雄大で遥かな旅の交響曲の楽章をつづっていくことになったのである。

第一楽章 ソナタ「自分との約束の旅」――世界一周旅行
16年前の手紙に書かれていた夢はほとんど叶っていたが、世界一周の夢だけがまだ達成できていなかった。結婚して子どもがいるわけでも、家のローンを支払っているわけでもなく、親も健康に暮らしている…こうした有利な条件がそろってはいたが、会社の仕事は毎日忙しく、夜遅くまで残業をする日々が続いていた。週末も出勤することが多く、旅を計画する時間はない。厳しい現実が、彼にのしかかっていた。

そんな時、富樫さんに最後の決断をうながしたのは、友人の突然の過労死だった。結婚したばかりで、これから温かい家庭を満喫するはずだった友人は、仕事の重圧のために愛妻と生後1か月になる子どもを残して旅立ってしまったのだ。かつて富樫さんとともに旅行を楽しんだ彼にも、きっとまだ実現していない多くの夢があったに違いない。富樫さんは彼の冥福を祈ると同時に、「自分との約束の旅」を実現することを決心した。

2002年11月、富樫さんは会社の同僚たちの理解を得て仕事を辞め、バックパックを背に一年半をかけて、船、飛行機、長距離バスや列車で、世界50カ国あまりを巡る旅に出発した。

それは、ネットワーク通信がまだ今のように発達していない時代であり、経済的にあまり余裕のない若者が自力で世界一周を成し遂げるのがどんなに大変なことかは、想像にあまりりある。だが、今その頃のことを思い出す富樫さんの表情はとても穏やかだ。なぜなら彼の心にはつらかった思い出はほとんどなく、感動したできごとは数え切れないほどあるからだ。それを語り始めたら、おそらく数日かけても語りつくすことはできないだろう。

イグアスの滝の上にかかった巨大な虹、サルヴァドールのカーニバルで天に轟く太鼓の音、イスラ・ムヘーレスの透明な海水と真っ白な砂浜、アマゾン川でイルカと戯れたこと、ヴェネツィアのゴンドラ漕ぎの高らかな歌声、ペルーのチチカカ湖の島民一家の温かい笑顔、ナミブ砂漠に沈む美しい夕陽、アフリカの難民キャンプにいた老婦人の手の温かさ…すべてが忘れられない思い出だ。

そして、最も心に深く刻まれた情景のひとつが、南米ボリビアの鉱山で真っ黒になって働く子供たちの姿だった。年はわずか10歳程度。一年中、日の光も差さない穴の中で、落盤事故や有毒ガスの噴出という危険と隣合わせで大人たちに交じって作業する。劣悪な環境のために若くして亡くなる人が多いという。同じ地球に生まれながら、このような悲しい運命を持つ子どもたちがいることを目の当たりにし、富樫さんは深く心を痛めた。

第二楽章 変奏曲「感謝と恩返しの旅」――徒歩で台湾を一周
世界各国を巡る途中で、富樫さんは海外に住む多くの台湾華僑から献身的な助けを受けた。以前から台湾に縁があった富樫さんは、世界一周から帰った後、台湾の人々に感謝の気持ちを行動で示したいと考え、台湾を徒歩で一周しながら、日本に台湾のことを紹介していくことを心に誓った。

2004年10月20日から2005年1月6日まで、富樫さんは台北を起点と終点にし、毎日平均15〜20キロのペースで歩いて1100キロを歩き通し、79日かけて徒歩で台湾一周の快挙を成し遂げた。

徒歩というゆっくりした移動方式を選んだのは、より多くの現地の人々人と交流するためだった。台北西門小学校の方慧琴校長から始まって、台湾各地の小学校長がバトンを手渡すように彼に宿を提供してくれなかったら、この体験の旅を完了するのは難しかったかもしれない。80日間の間に、彼は51か所の小学校を訪れ、学校の宿直室や保健室、寺院、教会、派出所などに宿泊した。

台湾人の温かい心は、この異国の青年の心を感動させた。毎週、彼は故郷・山形のYBCラジオを通じて、現地で見たり聞いたりしたことを日本のリスナーたちに生き生きと伝え、日本のテレビで見るような国会の乱闘場面が決してこの美しい島の本質を表すものではないということを理解してもらうのに努めた。

また、小学校にやってくると、富樫さんは小学生たちに彼の旅行経験を話した。子どもたちは目を丸くして話を聞き、この日本の「お兄さん」を好奇心いっぱいの表情で見つめた。彼は子どもたちに希望の種を植え、夢をあきらめないようにと励ました。また彼の方も、2万人以上の小学生と交流し、子供たちから「加油(がんばって)!」の声に勇気をもらい、背中には重いバックパックを背負ってはいたものの、足取りは軽やかだったという。

富樫さんが驚いたのは、台湾の徒歩の旅を終えた後、台湾の行政院長(日本の首相に当たる)に会見を求められたことだ。台湾の幹線道路に歩道がなくて危険だという彼の意見を聞いて、行政院長は3年以内に台湾を一周する道路に歩道を整備することを約束した。もともとは感謝と恩返しのための旅だったが、この美しい島にこのような予想外の影響を与えることになって、富樫さんは実際に行動することの重要性を再確認したのだった。

第三楽章 メヌエット「単騎千里を走る」の旅――中国を自転車で巡る

台湾から帰国してから、富樫さんは国際交流基金で仕事を始め、「心連心」中国高校生招へいプロジェクトの企画や運営に携わり、日本の受け入れ先高校やホームステイ先を探したり、中国の高校生たちの面倒を見たりする仕事を通して、彼らと深い友情を結んだ。

11か月間の日本留学期間中は、毎日が楽しいことばかりではなかった。時には、周囲の人たちとの交流がうまく進まず、孤独を感じたり、日本以上に厳しい中国の大学受験のプレッシャーに押しつぶされそうな生徒もいた。それでも帰国の際には別れを惜しみ、涙する生徒たちの姿を目にして、こうした中国の高校生たちを言葉で励ますだけでなく、自分の行動によって彼らにエールを送ることはできないかと考え始めた。

2008年9月14日、富樫さんは東京から中国の長春へ飛び、ここを起点として2か月の自転車旅行に出発し、帰国した高校生たちを次々に訪問した。そして瀋陽、北京、天津、済南、南京、蘇州などを経て、11月中旬にはゴールの上海に到着した。

彼の3千キロ近くの行程において、40名あまりの中国の高校生たちは、自分の祖国で日本から来た「お兄さん」に再会した。そして、久しぶりに会った喜びを分かち合い、日本で感動したことや忘れがたい経験を語った。高校生たちは富樫さんが自転車で中国を走っている間、たびたび携帯メールで励ましの言葉を送った。時には励まし、時には励まされながら、富樫さんはゴールの上海を目指して、雨の日も風の日もひたすらペダルをこいだ。

河北省の滄州市では、まもなく日本に研修に行く学生たちに講演をしてほしいと頼まれた。そこで彼は得意の中国語で、「人生は決して一本の道ではなく、さまざまな選択肢がある。たとえ志望する大学や就職先に行けなかったとしても、人生の意味がなくなるわけではない。常に夢を抱き、それを実現するために努力し続ければ必ず自分が満足できる答えが見つかるはずだ」と、学生たちに伝えた。彼の講演を聞いた学生たちは感想文をつづって、彼らが感じた驚きや感動を表現した。

中国の自転車の旅で富樫さんが深く感じたのは、日中関係の将来に楽観的な考えを持つ人が以前より多くなったということだった。南京では思いがけない経験をした。自転車が故障して困っていたところ、ちょうど通りかかった中国人男性が車を30分も走らせて修理店まで連れて行ってくれた。店はすでに閉まっていたが、お店の人は残業して翌朝までに自転車を修理してくれた。富樫さんがお金を出そうとすると、彼らは笑って「遠い日本から来てくれたのだから、お金はいらないよ」と言ったのだ。痛ましい歴史を持つ南京という土地で、ごく普通の日本の青年がこのように厚くもてなしてもらえたことを、富樫さんは一生忘れられないという。

第四楽章 ロンド「今新たな道を歩き出す」

3回の遥かな旅は、3つの大きな人生経験となった。そして東京に戻った富樫さんは、日本語学校で働く道を選んだ。中国の高校生たちとの交流を通して、今後も中国、そして世界中から日本に興味を持ってやって来る若い世代の外国人たちと関わっていきたいと思うようになったからだ。現在、彼が勤めるインターカルト日本語学校では、世界30カ国以上から600人近い外国人たちが留学している。彼の新たな夢は世界中にさらに多くの日本ファンを増やしていくことだ。

壁にかかった新しいカレンダーをまた1枚めくる。雨があがった晴天の冬の日。富樫さんは窓の前に立って遥か遠くを眺め、背筋を伸ばして窓を開ける。遠くから春の声が青空に響いている。自由に空を翔るという人々の永遠の憧れを載せて…。(許莎、姚遠執筆)

資料一 富樫史生プロフィール

1968年、山形県鶴岡市に生まれる。大学時代の1988年〜1989年に上海、1989年にアメリカのワシントン、1990〜1992年に北京に留学。留学の間に、中国各地およびインド、パキスタン、タイ、マレーシア、シンガポール、アメリカ、カナダなどに旅行をする。

1994年〜1996年、台湾の台南で日本語専任教師。その後の1年間、ニュージーランドのクライストチャーチでも日本語を教える。1997年に帰国し、東京都内の出版社で6年近く勤務。その後退職し、単独世界一周、徒歩での台湾一周、さらに中国の長春から上海までの自転車の旅を成し遂げる。その足跡は世界の60以上の国と地域にわたる。現在、東京の秋葉原にあるインターカルト日本語学校勤務。

資料二 富樫史生さんへのインタビュー

Q 世界一周の旅で富樫さんに深い印象を与えたことは何ですか?
A 世界はとても広いということです。私は今まで62カ国を訪れましたが、世界にある国々の3分の1も周ることができませんでした。世界のいたるところで華僑の人たちの親切を受けたことは忘れられない思い出です。外国で出会った彼らは、いつもどこが危険かとか、どこのレストランがおいしいかなどを親切に教えてくれ、時には家に泊めてくれました。みんな同じアジア人で、兄弟のようにとても近い存在だと感じました。

Q 世界一周でも、中国での自転車旅行でも、出発前に不安はありませんでしたか?富樫さんの勇気はどこから来るのでしょう?
A 出かける前は確かに少し不安です。でも悪意を持って近づいて来る人に出会うことはそんなに多くないですし、私は自分の五感で本物の世界に接したいので、好奇心が恐怖よりはるかに勝るんです。困ったことよりも、楽しかったことの方が多かったです。未知の世界に飛び込んでいろいろな人と知り合うことが、旅の醍醐味だと思います。

Q この3回の旅行は、それぞれ富樫さんの人生にどのような影響を与えましたか?
A 世界各地の人々と友達になることができました。3歳から85歳まで、年齢も人種も国籍も関係なく、彼らは私の一生の宝物です。遠く離れていても、近くにいるように感じます。世界一周の旅は、私にさまざまな価値観を教えてくれました。今まで以上に楽観的になり、さらに忍耐強くなった気がします。中国の旅では、「百聞は一見に如かず」ということを再認識しました。テレビや新聞、インターネットでいくらでも情報は手に入りますが、やはり自分の目で見て感じることが大切です。これらの旅で、私は自分が以前より積極的に生きるようになったと感じます。困難に出会っても、「行く手に山があっても道は必ず開ける」という楽観的な考え方を持てるようになりました。

Q 人生をどのように過ごすべきだと思いますか?やりたいことがあったら、どんなに難しくてもやってみますか?
A 人生に後悔を残したくないので、できるだけ自分がやりたいことがあったら実行しようと思っています。考えてばかりいて何もしないよりも、まず行動することが非常に大事です。やってみないと、できるかできないかはわかりません。今回うまくいかなくても、別の方法があるかもしれません。行動してみて、思いがけない収穫を得たことも多いです。

Q もし16年前に書いたあの手紙を受け取らなかったら、現在どんな生活をしていたと思いますか?
A もしあの手紙を受け取っていなかったら、ずっと同じ会社で普通のサラリーマン生活を送っていたかもしれません。未来の自分に手紙を書いて、大切なことを思い出させてくれた16歳の自分にとても感謝しています。(インタビュー・まとめ:許莎)

富樫史生のサイト「行雲流水」 http://wandrian.picot.ne.jp/main.html
台湾、歩いて一周 http://www.publiday.com/blog/taiwan/2004_10.html
長春−上海 中国自転車の旅 http://bikechina.blog64.fc2.com/
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